友達の子どもが小学校に入って2ヶ月。
頑張り屋さんのその子は、頑張りすぎて
連休明けから学校に行けなくなった。
小さな頃から知ってて、私にとってもわが子のような存在で辛そうな友達やその子の姿をみるととてもココロが痛む。
気持ちは行きたいけど、学校に行こうと思うとカラダが動かない。
カラダは至って健康だけど、ココロが元気をなくしてしまってた。
行くと頑張りすぎてしんどいし、
行かないと行けてない自分を責めてしまう。
もう、7歳にもなるとこんなにもいろんなことを考えて、複雑な思いを感じるようになるんだね。
ついこの前まで子どもだと思ってたけど、しっかりしたお兄ちゃんになってるなとすごく思った。
学校とのやりとりを聞かせてもらってると、
『個性を認める』ってよく耳にするようなったけど、
まだ、みんなと同じようにしなければいけない。(他の子から不満が出るから)
みんなと同じようにできないといけない。
(できないなら、支援級へ行く方がいい)
トラブルが起きないように、輪を乱さないようにってことが大切にされているのだろうか。
これがまだまだ教育現場では根強くあることを感じた。
輪を乱さない(調和を図る)ということは、何でもみんなと同じようにできることなのだろうか。
自分らしくみんながいながら、調和を図ることはできないんだろうか。
娘も年中さんになって
『食べれないものがいっぱいあるから、給食の時間がいや』というようになり
毎日、給食の時間は『ごめんなさい』(つがれたものは残すから)と言わないといけない。
牛乳の時間も肝油ドロップの時間も
嬉しそうに食べてる子を横に
『ごめんなさい』という娘。
食べ物は大切にしないといけないのはわかる。
でも、毎日毎日ごめんなさいもつらいよね、とも思う。
子ども自身もそんな中で、『みんなと違う』ということを少しずつ気にするようになってくるのだろうか。
成長といえば、これも成長なのかもしれない。
しんどいことも経験して、いろいろ学んでいくといいと思う気持ちと
やっぱり、いつもと全然違う表情して落ち込んでる姿をみると、なんとか守ってあげれないものかなとも思う。
(学研を思い切ってやめてみたら、自主的にやりたいというようなった。)
食べることにしても、勉強にしても
『全部何でも食べる方がいい』
(大人も嫌いなものあるよね)
『勉強もしっかりした方がいい』
(机の上だけで言われた課題をこなすのが勉強じゃないよね?)
『しないとみんなから遅れるよ』
(やっぱり周りと何でも同じがいいってことなのかな?)
大人はサラッとそういうけど、
今はその言葉に本当かなと?思う私もいる。
しんどい、苦手、無駄、必要。
大人は子どものためを思って言うけれど、
それをしんどいと感じること、無駄と思うか必要と思うか、本人にしかやっぱりわからないのかもしれない。
壁にぶつかるたび、いろんなことに腹が立ったり、落ち込んだり、悩んだり。
子育てしてると本当にいろんなことを感じる。
でも、その度に
『やっぱり、
感じることは自分にかできない。
本人でないと感じることはできない。
感じること(自分らしさ)を大切に
こころもからだも健康にイキイキと毎日を送ってほしい』
できないことは、ダメなことじゃない。
ただ、違いなのだ。
できない=ダメなこと、克服することって考えるとしんどいけど
できる、できない=個性、違い
そう思えて、それを認め合えるのがほんとの調和なんではないか。
やっぱり、全部が完璧にできなくっていいんじゃないかな?
みんなで補えあえる、そんな社会で生きて欲しい。
私だって、できないこと山ほどあるもん。
グルグルしたあと、やっぱりここにたどり着くのだ。
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